エレファントカシマシ『星の砂』は愛国ソング?歌詞の意味を考察

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エレファントカシマシ

日本を代表する4人組ロックバンド「エレファントカシマシ」(通称エレカシ)。1981年結成、1986年にデビューし幅広い表現活動を続けている彼らは今年2023年3月、無事35周年を迎えました。

本記事ではそんなエレカシの楽曲『星の砂』の歌詞について、いちファンとして考察を書いています。

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エレファントカシマシ『星の砂』概要

『星の砂』は、エレファントカシマシ初のベストアルバム「エレファントカシマシ ベスト」(1997年リリース)収録曲。作詞は宮本浩次、作曲はエレファントカシマシ。

『星の砂』はVo.宮本浩次が15歳のときに作った曲としても知られており、特に古株のファンのあいだではエレカシ初期の名曲として親しまれている。

エレファントカシマシ『星の砂』は”愛国ソング”?

率直に言うと『星の砂』の歌詞はかなり独特だ。「日本の神」「神の心」「立派な国を築きたい」、こういった”愛国的な”ワードがくり返し登場するため、ある種”聴く人を選ぶ”楽曲と言ってもいいかもしれない。

もちろん日本を肯定し愛国心を表現する歌を歌っていけないはずはないのだが、それでも、影響力のあるバンドが「愛国ソング」を作って歌うことに何か別の意味を見出そうとする人は多い。

ただ、私個人としては愛国心と軍国主義とは全くの別物であると考えているので、この記事もその前提で書いていきたいと思う。

エレファントカシマシ『星の砂』歌詞について

少しずつ変わる この国は ますます犠牲が多くなる
目にさわる奴は とりあえず埋めよう(歌詞引用)

『星の砂』の歌詞をみていくと、『デーデ』や『ガストロンジャー』などの楽曲同様、風刺的な表現でこの社会を暗に非難しているように思える。

「目にさわる奴は埋めよう」「立派な国を築きたい」

思わずどきっとしてしまうような刺激的なフレーズだ。15歳の少年が生み出す言葉としてはずいぶん大人びているようにも感じる。が、15歳だからこそ書くことのできた歌詞でもあるのかもしれない。

宮本浩次は文学作品に精通していることでも知られているが、学生の頃から新聞や日本文学など幅広いジャンルの読み物を日夜読みふけっていたと、過去の対談やテレビ出演などの際に語っている。

世の中には嫌な面も汚い面も山ほどある。光があればその裏には必ず影ができる。

精神がまだ完全に成熟しきっていないうちから、そういった世界にも積極的に目を向けていたのであれば、相応の反骨精神もおのずと育ってくるだろう。いわゆる”目にさわる奴”に対抗できるだけの十分な力を手にしたいと願うようにもなるだろう。

私はこの『星の砂』という楽曲は、宮本浩次が幼い日に抱いた願いと祈りを込めた歌だと思う。

エレカシ『星の砂』曲タイトルの意味は?

星の砂 星の砂星の砂 星の砂
星の砂 星の砂星の砂 星の砂

ところで、なぜこの楽曲タイトルは『星の砂』なのだろうか。歌詞のなかでも何度もくり返されるこのワードには何か明確な意図があるのか、それとも造語とされている『デーデ』などと同じように深い意味はないのか。

過去のインタビューなどを調べてみても正確なところは分からない。

これは余談だけれど、『星の砂』ときいて思い浮かぶ話がある。沖縄に伝わる口承の昔話だ。

沖縄の昔話 竹富島の星砂

二ヌファ星とウマヌファ星という二人の星が夫婦となり、やがて多くの子ができた。が、お産のことを聞かされていなかった海の神の怒りをかってしまう。結果、授かった子どもたちは皆、海の神の放った大蛇に食べられてしまった。大蛇に食べられた子どもたちの骨は星砂となり、海に広がってあてもなく漂い続けた。

しかし、その一部始終を見ていた別の神がいた。二人の星とその子どもたちを憐れんだ神の計らいにより、彼らは年に一度、お祭りの日にだけ会うことができるようになったのだった。

日本の民承らしい、切なく悲しい話だ。この話とエレカシの『星の砂』は、おそらく何の関係もないのだとは思う。

けれど『星の砂』を聴くたびに、やっぱり何となくこの話を思い起こしてしまう自分がいる。「神の心」や「犠牲が多くなる」「民衆は耐えよう」などのフレーズが、罪も無いのに離ればなれになった星の親子の無念に重なってしまう。

もちろん歌詞の解釈は人それぞれ。一通りや二通りではなく、いくつもの読み方や感じ方ができるのもまた、エレカシ楽曲の奥深さの理由なのではないだろうか。

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