エレファントカシマシのライブの客層には、圧倒的に女性が多い。
また、例えばテレビの特番などでエレカシについて取り上げられた際なども「エレカシファン」という名目でインタビューに答えていたりする人は、たいてい女性ファンであることが多い気がするのだ。
音楽を聴いて感動するのに男も女もないだろうという意見はもっともだと思うし、ファン層を性別で区切ること自体がそもそもナンセンスだとも思う。
しかしそれでも、エレカシファンに女性がとても多い理由について、以前から個人的にちょっとだけ気になっていた。また、他の女性ファンの人はエレカシというバンドに何を求め、何を見ているのだろう?と何とはなしに考えることも多かった。
今回はエレファントカシマシを愛してやまない女性ファンの一人として、このことについて自分なりの考えをまとめてみようと思う。
エレファントカシマシの楽曲には”男の生き様”を歌ったものが圧倒的に多い
タイトルに「男」とつくエレカシ楽曲
エレカシの楽曲には、男性特有の強さや弱さ、つらさと楽しさ、理想の生き方や生活などの概念について”男性視点”で歌ったものが圧倒的に多い。
たとえば、エレカシ楽曲のうち曲タイトルに「男」とつく作品は以下の通り。
・花男
・待つ男
・珍奇男
・浮雲男
・無事なる男
・習わぬ経を読む男
・おまえの夢を見た(ふられた男)
・ドビッシャー男
・かけだす男
・歩く男
・季節外れの男
・涙を流す男
男、男、男…。曲タイトルとして「男」という性別・概念を掲げている作品だけでもこれだけたくさんあるのだ。またタイトルに「男」の文字がなくとも、歌詞をみれば、ああこれは男性視点のたのしさ哀しさを歌ったものなのだなと一目でわかる楽曲も多い。
『俺の道』の歌詞になぜか”共感”を覚える女性もいること
満たされないまま 引きずりまわして歩け
女には言っておけ 「俺は退屈なだけさ」って…(『俺の道』歌詞より引用)
「女には言っておけ」。私はこの歌を聴くたび、この歌詞のもつ圧倒的な”男くささ”みたいなものに対してなんとなくときめいてしまうのだけど、でもこれも考えてみれば不思議な話なのかもしれない。
私は音楽的な専門知識というものを本格的に学んでいるわけではないので(趣味でいろいろ調べたりすることはあるが)、いわゆる人の共感をよぶために効果的なコード進行だのメロディーだのアレンジだの、そういうことは全くわからない。
そういう人間が曲を聴くとき、一番に着目するのはどこなのか?それは”言葉”に他ならない。音とともに流れてくる言葉が、歌詞が好きで、そこをじっくり嚙みしめるように味わいたいからこそ、私は好きな曲を何度もくり返し聴く。
もちろん音の感じがなんとなく好きで、メロディーラインが好きで、ということもあるけれども、でもやっぱりそこにのっている歌詞・言葉というのが、音楽をたのしむ上で個人的に最も重視したいポイントだ。
だから不思議なのだ。エレカシの楽曲を聴いていて、いわゆる”共感”を覚えて感動したこと、ぐっときたことは幾度もある。でも、”男性視点”で書かれた「男らしい」「男くさい」歌詞ののった楽曲を聴いて、内面・外見ともに女である私が心からの共感を覚えるのはやっぱり不思議だし、面白いなあと思う。
エレカシ唯一の「女性目線の曲」
ちなみにエレファントカシマシの楽曲にも「女性視点」で書かれたものがある。
曲タイトルは『彼女は買い物の帰り道』。
「でも私は誰かを愛してる 愛してる」
2010年リリースのこの曲を初めて聴いたときは、それなりに衝撃を受けた。あの宮本浩次が完全に女性の立場に寄り添うような歌を作り、そしてあんな穏やかな声で歌うのか、と。
でも今思えばその感動は、純粋に楽曲を聴いて得たものというよりは、エレファントカシマシというバンドが女性の歌を!という驚きのほうが大きかったのかもしれない。
私は、エレファントカシマシの描き出す作品は圧倒的に男性のもつ世界観にもとづくものなのだと信じていたし、正直のところそこからブレてほしくないという気持ちもあった。
この『彼女は買い物の帰り道』を聴くと、他のエレカシ楽曲を聴くときはなんとなく違う感覚になる。この曲の良し悪しを言いたいのではなく、なんというか、全く違うバンドの知らない曲を聴いているような気分に一瞬だけなるとでもいうんだろうか。
それだけエレファントカシマシの振り幅・表現の幅は歳を経るごとに広がりつづけているとも言えるだろう。でも、私にとってはやはり、エレカシはいわゆる”男の世界”をカッコよく描き出すロックバンドだという認識が強いのだ。
だから、その認識と少し違う面を楽曲にみたとき、一瞬だけびっくりしてしまうことが時々ある。受け入れられないというマイナス感情ではなくて、「うわ、こんなのも歌うんだ!」というような、純粋な驚きを覚えるのである。
女性ファンはエレファントカシマシに何を求めている?
女性のエレカシファンの人たちは、エレファントカシマシというバンドに何をみているのだろうか。
女性と男性とでは、そもそも脳のつくりが異なっている。そのため、一般的に女性は男性に比べると直感や感性が優れているため、共感力に長けているという調査結果がある。
では、私たち女性はエレファントカシマシというバンドの生み出す世界に「共感」しているのだろうか。もちろん世界観といっても楽曲によってさまざまだけども、私は、やっぱり「共感」というのはちょっと違うんじゃないかという気がしてならない。
共感でないなら何だろう。個人的に思い浮かぶワードは「羨望」である。
エレファントカシマシが描き出す世界には、決して綺麗な景色ばかりが見えるわけではない。苦しさもつらさも、世の不条理も痛ましさも、歌詞の行間一つ一つにあらゆる色が垣間見える。決してうつくしい世界とは言えないのに、私たちはその世界を見続けていたいと感じさせられる。そんな世界を日々生み出し続ける彼らに対し、どこか羨望の念を抱いてしまう。
もちろん、エレファントカシマシには男性ファンもとても多い。世の男性は、エレカシの歌詞をみて何を感じるのだろう。これは女の私の勝手な想像だけれど、時にはその歌詞にリアリティが溢れすぎていて、共感する以上に苦しくなってしまうことがあるんじゃないだろうか。
ああ男よ行け男よ勝てさぁ男よ 『男は行く』歌詞引用
男だからといって絶対に「行かなければ」いけないことなんてない。「勝たない」とならないなんてことはない。そういう意味では、エレカシの歌詞は時にはちょっと古典的とも言える。
楽曲の楽しみ方も感じ方も人それぞれ。十人いれば十通りの聴き方というのがある。
他の人がどんなふうに楽曲を楽しんでいるのか、またそこに男女の差はあるのか。そんなことをあれこれ考えることも、これまた一つの音楽の楽しみ方なんじゃないかと私は思うのだ。