エレファントカシマシの名曲【歴史】。実はこの楽曲には序章がある。それはエレカシがROCK IN JAPAN FESTIVAL2003にて披露した【歴史前夜】と呼ばれているのパフォーマンスだ。
今回はエレファントカシマシの伝説のパフォーマンス【歴史前夜】について。
エレファントカシマシ アルバム『扉』について
ドキュメンタリー『扉の向こう』に見られた素の姿
「歴史」は、エレファントカシマシの14枚目のオリジナルアルバム『扉』収録曲。このアルバムの制作過程を記録したドキュメンタリー『扉の向こう』では、制作期間におけるエレカシメンバーの貴重な姿を見ることができる。
ドキュメンタリー内では新しいものをゼロの状態から生み出すということの苦しさと楽しさなど、それまでバンドとしてもあまり前面に出してこなかったような部分までもがすべて、そのまま映像作品として表現されている。
こうした姿は、もちろんそれまでにもエピソードとして語られることは多々あったものの、このように一つの「作品」として「提供」されるようなことはあまりなかったように思う。そのことにひそかに驚いたファンも公開当時は多かったようだ。
また映像内では、メンバー同士の素の関係性や舞台裏での姿が垣間見られるようなシーンもかなり多かった。
演奏の音合わせ中、Vo.の宮本がGt.の石森に対し多少声を荒げるような場面もあり、このシーンについてはいまだにネット上で「パワハラ?」「いびり?」などのワードとともに話題になることがある。が、個人的には音楽に対し1ミリの妥協もなく真摯に向き合っている姿が見られて嬉しかったし、やはり古株のファンにはこのシーンを前向きなものとして評価している人が多いように思う。
「歴史前夜」と呼ばれているパフォーマンスについて
ライブ活動を大切にしているバンドやアーティストはすべて同じかもしれないが、中でも特にエレファントカシマシの楽曲は、彼らのおこなうライブパフォーマンスと非常に強く結びついている印象がある。
だから、一つの楽曲を語る際には、必ずそれと一体化したライブパフォーマンスとセットで話を進めたくなる。音源をぼんやり聴いていても、また歌詞をぼうっと眺めていても、つい瞼の裏に浮かんでくるパフォーマンスというものがあるのだ。
いついつに開催されたライブの、どの曲のどのパフォーマンスがもっとも素晴らしかったか…というような議論をここでするつもりは全くない。ただ私個人としてはやはり、『歴史』という楽曲においてはこの『歴史前夜』というパフォーマンスがその最たるものなんじゃないかと思っている。
もっとも、公式に『歴史前夜』という楽曲が存在するわけではない。
ただ、エレファントカシマシの『歴史』という楽曲が完全にできあかる前、まだ歌詞すらついていなかった未完成の状態のこの曲をそのまま未完成の状態で披露したことがあり(ROCK IN JAPAN FESTIVAL2003にて)、そのたった一度きりのパフォーマンスがファンのあいだでは『歴史前夜』と呼ばれ、長く語り継がれているのである。
『歴史前夜』はなぜ多くの人の心に根強く残っているのか
”歌詞のない未完成な楽曲”に感動する理由
『歴史前夜』はなぜこれほど多くの人の心に根強く残っているのだろうか。その理由について考えてみた。
音楽を聴いて、自分自身の体験や感情と重ね合わせて共感したり、あるいは単に声色や歌唱の素晴らしさに感動したりすることはおそらく誰にでもあるだろう。
楽曲を構成している一つ一つの音、フレーズには、それぞれに特有の響き、振動数のようなものがある。その振動数が、自分自身の心のゆらぎにちょうどマッチしたとき、私たちは多大な感動を覚える。
このときの心の動きは、たとえば感動的な映画をみたり、心に響く本を読んだりして感銘を受けたときとほぼ同じだ。
ただ、映画や本の場合、基本的には作品を構成する「言葉」が分からなければ感動には至らないだろう。人と動物を区別する一つの指標として言語をもつかもたないか、という判断基準がある。それくらい、私たち人間は言葉というものを非常に大切にしている。
エレファントカシマシ『歴史前夜』のパフォーマンスには”言葉”がない。『歴史』の実際の歌詞として「歴史」というワードが随所に登場するが、『歴史前夜』ではそれがすべて「レリヒー」という特定の意味をなさない響きで発音されている。レリヒー、レリヒー… 意味をなさない、と書いたが、そこにはやはり何か意味がある。
「言葉」がない代わりに、何か、表現をするうえでとても重要なものが、その一言の発声のなかにぎゅっと凝縮されていて、その場にいた人たちの心を震わせた。
人が人に何かを伝えるうえで、言葉以上に優れたものなんてないんじゃないかと思っていた。でも実際は、言葉以上に大事にしないといけないものが世の中には溢れているのだ。エレファントカシマシのパフォーマンス『歴史前夜』は、そういう、”言葉以上のもの”をひたすら押し固めて形にしたようなものだったと思う。
一つの音楽を楽しむうえで、歌詞に重きを置くか、あるいは音の響きやリズムに着目するかなんて人それぞれだろう。
しかしそういった分かりやすく目に見えるものだけじゃなく、自分自身の”振動数”にピタリとマッチするようなものがふと”見える”瞬間というのもある。エレファントカシマシのライブパフォーマンスにはそんな瞬間が溢れているんだなあ、ああだから好きなんだ、と『歴史前夜』のパフォーマンスを見返すたびに私は考える。