鬱映画『リリイシュシュのすべて』ネタバレ感想| 久野陽子(伊藤歩)が髪を捨てた理由

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エンタメ

2001年に公開された岩井俊二監督映画『リリイシュシュのすべて』。舞台となった田舎の田園風景や劇中にて流れるクラシック音楽が美しく、根強いファンも多い一方で、いじめや暴力などシビアで残酷な描写も多いことから「鬱映画」「気持ち悪い」といった感想もよく見かけます。

今回は、本作に登場したキャラクター・久野陽子(伊藤歩)が長かった髪を捨てたストーリー展開について。

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『リリイシュシュのすべて』登場キャラ・久野陽子(伊藤歩)とは

伊藤歩が演じたキャラクター・久野陽子(くのようこ)は、本作の主人公・雄一がひそかに片思いをしていた相手。ピアノが得意で、合唱コンクールでは伴奏をつとめた。優れた容姿ゆえに男子からの人気も高いが、一方で一部の過激派女子の嫉妬をかっている。

以下、ネタバレを含みます

ネタバレ感想と考察、久野陽子(伊藤歩) が髪を捨てた理由

『リリイシュシュのすべて』の主人公は雄一であり、基本的には彼の視点や心情描写を中心にストーリーは進んでいく。そのため、劇中にて久野自身の心情が主観的に描かれているシーンは非常に少ない

にも関わらず、久野の意思や内面の強さ、一本筋の通った人柄はスクリーンから痛いほど伝わってくる。それはあるいは、彼女に想いを寄せていた主人公・雄一の心情に視聴者である我々が無意識に共感し共鳴しているためかもしれない。

中でもストーリー後半、長かった髪をばっさりと切ってクラスメイトの前に堂々と姿をあらわしたシーンにおいて、彼女の凛としたふるまいはまさに圧巻だった。髪は女の命などというが、久野が髪を捨てたあの行動にはある意味、それ以上の意思が含まれていたように思う。

髪をばっさり落とし、まるで尼のような姿になることを選んだ理由は、星野の魔の手から逃れるためだけでなく、あのときクラス中、学校中に昏くうずまいていた悪意や嘲笑、痛み、そのほかあらゆる残酷なものと自身を完全にひきはなすための行為だったように私には思える。それはまさに、髪を落とし出家した人が、俗世にはびこるあらゆる悪意からすっかり解放されるのと同じように。

多くの人は、幼少のころ持っていた自由な心を呼び覚ますためのやさしい世界を大人になっても捨てず、心の片すみにひそかに持ち続けている。趣味、道楽、余暇活動、人によって呼び方はさまざまだけれど、それを抱えつづける目的はおそらく同じだ。「自分でありつづけるため」。けれど時には、それを無残に壊され、奪われてしまうこともある。

あのときの久野にとって、髪を捨てるほかに生き続ける道はなかった。女であることを捨てなければきっと、心の自由さを保てなかったのだと思う。他の何を失っても、ピアノを弾くこと、音を楽しむ心を失わなければ、ぎりぎりのところで自分を保つことができたんじゃないだろうか。

『リリイシュシュのすべて』は、原作小説と映画でそれぞれ展開が多少異なっている。映画版では蒼井優演じる津田詩織が死を選び、久野は女であることを捨てて生きぬく道を選ぶ。しかし原作においては、死を選ぶのは津田ではなく久野のほうである。

本作のファンにはこの違いの意味合いや意図について語るのが好きな人も多いし、私もその一人だ。が、よくよく考えると、実のところ津田も久野も、突き詰めれば同じものを求めていたのではないか、とも思ってしまう。

久野が髪を落とし丸坊主になったのは、女としての自死だったと私は解釈している。身体的な死か、はたまた精神の死か。どちらにしても、久野と津田はある意味、ものすごく似たもの同士だったのではないだろうか。

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