映画『LAMB/ラム』あらすじとネタバレ感想・考察  アダの正体は?

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エンタメ

2021年に公開された映画『LAMB/ラム』は、スウェーデン・アイスランド・ポーランド合作のスリラー映画。その刺激的な内容や独特の演出などが高い評価を受け、第94回アカデミー賞国際長編部門アイスランド代表作品に選出された。

今回は映画『LAMB/ラム』の個人的な感想と考察について。
※ネタバレあります。

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映画『LAMB/ラム』概要

『LAMB/ラム』あらすじ

霧に包まれた山間で群れをなす野生の馬たちは、何かが近づいてくる気配を感じ動揺している。その何かは家畜小屋を訪れ、中にいる羊たちを怯えさせる。

そこで牧羊を営んでいるマリアとイングヴァルの夫婦は、娘を亡くしてから二人きりで静かに暮らしている。

ある日、二人は一頭の羊の出産に立ち会う。だが、産まれてきた子羊は頭部から右半身が羊、左半身から下半身が人間という獣人であった。戸惑う二人だったが、その愛くるしい容貌から、死んだ娘と同じくアダと名付け、大切に育てていく。

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『LAMB/ラム』劇中の表現・演出について

本作を観て、獣人に死んだ娘の名をつけて育てる…という発想にまずは度肝を抜かれた。

獣人と聞いて思い浮かぶ映画と言えば、個人的には細田守監督作品『おおかみこどもの雨と雪』が記憶に新しいところだ。

が、あの映画に出てくる雪ちゃんと雨くんの場合、普段はあくまで普通の「人の姿」をしている。ちょっと気を抜いて素が出たり、あるいは闘争心とか敵対心をかきたてられて野生の本能がメラっとしたときにだけ父親と同じ「おおかみ」の姿になってしまうというような、言うなればまだ人間寄りの、ふわっとした感じの設定だったように思う。

しかし本作にて、アダと名付けられた子どもは体の半分が完全なる「獣」なのだ。上半身が完全に羊で、腕も片腕だけが羊の前足、もう片腕は人間の子どもの手をしていて、まあ正直かわいい…というよりはどことなく不気味な雰囲気を醸しだしている。

マリアのほうは生まれたときからアダを実の子のように可愛がっていて、イングヴァルのほうは初めは戸惑いはあるようだったけれど、マリアの影響なのか徐々に心をひらいていき、同じくわが子のように大切に育てる。

そこまではいい。

しかしマリアのアダに対する執着は少々常軌を逸している面もあり、序盤から作中ではすでに不穏な空気感が漂っている。

たとえばアダを生んだ母羊は、アダのいる部屋を見つめて鳴きながら、何日経ってもその場から動こうとしなかった。その様子が我慢できず母羊を撃ち殺すマリア。

このように、彼女には思わず唖然とさせられるくらいの過激さがあり、まあそれはさすがに人間のエゴじゃなんじゃないか?と思うくらいの言動・行動もあり。

それは、アダに対して生じた母性がそうさせているのか、あるいはマリア自身の本来の気性ゆえなのかは正直よく分からなかった。
ただ、もしアダという娘を亡くした経験がなければ、彼女の「母」としての在り方はまた違ったのかもしれない。

アダの父親の正体は?

本作では、アダの「父親」とみられる人物が物語のラストにて唐突に登場する。この「父」の存在を受け入れられるか否かが、あるいはこの映画を楽しめるかどうかの鍵と言えるのかもしれない。 

アダの父親も、アダと同じく獣人…上半身は羊、そして下半身は人間の男という姿をしている。いわゆるギリシャ神話に出てくる半身半獣の神様を連想させる雰囲気である。
この父親の登場により、正直物語そのものが一気にファンタジー色を帯びてくる部分も大きい。 

これはファンタジー=作り物・偽物というような意味合いとは少しちがう。そもそもファンタジーの起源というのは、一般的に神話や伝説、寓話などにもとづいているケースも非常に多い。そして口承の伝説が真実ではないという根拠もどこにもないわけである。

ただ、彼の登場により現実味が一気になくなった(アダの存在自体がそもそも現実的ではないが)部分はどうしても否定できないが…。

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アダの父に撃ち殺されたのはマリアの夫イングヴァル

物語の中盤にて、激情にかられアダを生んだ母羊を撃ち殺したマリア。
そして物語のラスト、その代償かのようにアダの父に撃ち殺されたのは、マリアの夫であるイングヴァルだった。

イングヴァルの立ち位置については、私には正直よく分からない。彼が本当にマリアを愛していたのかどうか、そしてアダの存在を受け入れたのはマリアへの愛情からなのか、それとも彼自身の意思ゆえなのか。

ちなみに劇中では、マリアとイングヴァル、そしてイングヴァルの弟の3人の人間関係がきわめて曖昧な形で描かれている。曖昧な…というのは、正直彼ら3人の関係性が視聴者側にはどことなく不安定に見える部分があるためだ。

3人が3人とも、互いにどう思っているのかという部分がどうも意図的に「ぼかされている」ように私には思えた。

特にイングヴァルの弟が兄の妻マリアに向ける感情は、少々歪んでいたようにも思える。そしてそこにアダという不可解な存在が加わることで、彼ら3人の関係性はさらに「歪んで」しまったとは言えないだろうか。 

アダという存在を認めなければ、3人しかいないこの小さな世界の輪の中に正しく加わることは決してできない。

たとえばイングヴァルの弟が、アダを「羊」と見なして草を与えたとき、イングヴァルは明確にそれを拒み、非難する姿勢をみせていた。

つまり、アダをあくまで「人」として認めなくてはならないのだ。なぜならそうしなくては、自分が受け入れてもらえないから。

人は結局、自分が排斥される道から徹底的に逃れようとする習性をもっている。アダの父親がどうこうというよりは、個人的にはこうした描き方がすごいなあ、上手いなあと思ってしまった。

マリアが夫を失い、妻という立場を失ったのは、自分が「母」という立ち位置から「排斥」される道を逃れようとした代償だったのだろう。 

マリアは、そしてアダはこの先どうしていくのだろうか。

正直後味が悪い…とは言わないまでもすっきりしないラストではあったものの、とても見ごたえのある作品だった。 

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